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近場にある岡本太郎と日本の古民家
出掛ける場所を提案する、港北NTオートのドライブレポート第二弾2006/07/01


岡本太郎美術館
岡本太郎美術館 - 林を抜けて(クリックで拡大)岡本太郎美術館は、生田緑地の「噴水広場」から「奥の池」を抜けたところにある。低いところから見上げる状態での第一印象は整理の付かない混沌としたものではあるが、施設に入れば自然の中にあっても一流の美術館である。階段を上ると美術館の入り口。階段の左はエレベーターへの通路。バリアフリー設計となっている。なお、乳幼児のオムツの取替えはトイレにて可能。授乳については受付でお願いすれば、事務フロアの一室に通してもらえる。

岡本太郎美術館 - 母の塔(クリックで拡大)岡本太郎美術館には巨大なモニュメントがある。「母の塔」。生田緑地の西口からアプローチした場合に上方からその存在を確認できる。高さ30メートルほどのその巨大なモニュメントは、岡本太郎美術館の発足と同時にシンボルタワーとして建設された。母の塔についてはこちらをごらんいただきたい。ここでなぜ岡本太郎と川崎市なのか。実際青山には「岡本太郎記念館」があるため、岡本太郎=青山というイメージを持つ人も多いと推測できる。そのいきさつについて説明する。岡本太郎は母岡本かの子の実家で生まれ、それは今の溝の口(川崎市高津区)のあたりだった。岡本太郎の画家人生の経済的基盤も後に名家である母の実家に移ることになる。

岡本太郎美術館 - 常設展示室その1(クリックで拡大)岡本太郎を取り巻く環境は大変「濃い」ものだった。父岡本一平が夏目漱石の推薦で「岡本一平漫画漫文集」を発刊し大ヒット。また川端康成の作品をサポートするなど、聞き覚えのある名前が多彩に関わってくる。その収入で家族そろってパリに洋行するが、その縁あって岡本太郎はパリ大学ソルボンヌ校へ留学する。そこでピカソの絵に出合う。ピカソの抽象画を見たときには、感動で涙が止まらなかったそうだ。そして、その感動を超える決意をした。その後抽象と具象の渾然とする作品を生み出す。

岡本太郎美術館 - 常設展示室その2(クリックで拡大)第二次世界大戦で退去命令が出され、岡本太郎は陸軍兵士として支那(CHINA=今の中国)に渡る。すでに芸術家として有名な岡本太郎は、肖像画を描かせられることになる。戦争が終わりしばらく抑留された後日本に戻ると、青山の実家は消失し、大量の作品は灰となる。しかし名家である岡本かの子の実家のバックアップにより、川崎の地にて作品を創出し続ける。これが川崎とのつながりになる。

岡本太郎美術館 - 常設展示室その3(クリックで拡大)1991年に川崎市市民ミュージアム「川崎生まれの鬼才・岡本太郎」展が開催され、岡本太郎はそのうち数点の作品寄贈を求められるが、それを断る。その後、2〜3点では駄目だから全部持って行きなさい、ということになり、その作品を収める美術館の構想を練ることになった。そしてその流れの決着点がこの岡本太郎美術館である。岡本太郎の哲学、というといささか陳腐な印象になるが、その人間論を示すものがいろいろな様式で展示されている。

常設展示物は季節に応じて入れ替えられ、また並行して不定期に開催される企画展も季節に合わせて行われる。岡本太郎は見てもらえてこそ芸術であるとした。芸術的センスの鋭い人ならば、確実に訪れる価値のある美術館だ。触発されるものが必ずある。

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